2005年11月15日

『気まぐれ雑記』から『感じ通信』へ

自分の身の回りに起こったことやニュースを聞いて感じたこと、テレビや映画を観て感じたこと、あるいは本を読んで思ったこと。多かれ少なかれ、人は生きている限り何かを見たり、聞いたり、嗅いだり、触れたりなどして、感じたり考えたりしている。

そこで一つ例に取ると、ニュース番組を見たとします。その内容を見たり聞いたりして僕は何かを感じるわけです。『ほおー凄いなあ』とか『何でやねん、それは無いやろ』とか。そしてコメンテーターの解説を聞いたりして、さらに何かを感じて突っ込みを入れたり同感したりする。

この『感じ』って何だろう?確かに何かを考える時、理屈を頭の中でこね繰り回したり、整然と並べたりするのだけれど、一番最初に来るのはこの『感じ』なんじゃないだろうか?『嫌やなあ』とか『ええなあ』とか、まずは『感じ』る。もっとも全然関心を示さず聞き流したりすることもあるけれど、まず何かが琴線に触れたり『感じ』るのだ。そしてその後に思考が始まる。

よく『感情で話しをするな』って怒られたり批判されたりすることがある。たしかに議論をしていて感情が高まって怒声を浴びせたり、議論の中身から逸れたことで誹謗中傷のやりあいをするってのはどうかなと思う。でも言い方はともかく、『私はこう感じた』と意思表示することは馬鹿にできないことなんじゃないだろうか?だって、その『感じ』には間違いなくその人の意見がある。

『感じ』は、生来その人が持っている特性の発露なのだろうか?僕はその『感じ』の中に、生きてきた中での経験や体験、習得や思考などがかなりの濃度で凝縮されているように思う。そうなると大きな括りで同じような考えや意見と見なされることもできるだろうけど、微妙なところでその人固有のものが出てくるものだろう。

『そんな万人の微妙な違いなんかに構ってられるか!!』

確かに、政治とか行政とか、ある局面では構ってられないこともあるかもしれない。でも、やっぱり僕は切って捨てるには忍びない。それどころか、そういうのを見たり聞いたりするのも面白かったりするのだ。正直、自分の感性に合うものだと更に楽しいけれど。

『感じ』ただけで終わらず、何故自分はそう感じたのか?自分なりに考えればもっと有意義だろうと思う。その時、誰かの意見や影響も入るかもしれないが、それでもいい。できるだけ自分の『感じ』に素直に則して考えて行けばそれで良いと思う。そして、もし考えているうちに当初感じた『感じ』がおかしいなと思えば、その時点で『おかしいな』と自分に言い聞かせれば良いのだ。

幸いネットの発達によって、ホームページやらブログで、比較的安価で手軽に自分の『感じ』や『考え』を表明することができるようになった。自分の考えを見てくれる、読んでくれるかどうかはともかくとして、表明することはできる。

もちろん表明し、そして尚且つ何らかのコミュニケーションができればそれに越したことはないが、表明するという行為だけをとっても、少なくとも自分なりの思考回路を働かせるのではないだろうか?僕は働かせます。そして自分なりに『なんでそんな風に思ったんやろ?』って疑問に感じることも、あるいは『うん、やっぱり間違い無い。』と確認することもあるし、稀に新しい閃きが出ることさえある。

長くなったけど、要するに『感じ』というのは万人が持っている考えの出発点ではないかと。いや、少なくとも僕は何かを『感じ』たからこそ、駄文かもしれないがこのブログに投稿をしているし、それが楽しかったりする。そして表明するだけではなく、個人の『感じ』を発露としているホームページやブログを見たり読んだりするのも楽しいのだ。

こんな僕の思いを表すブログタイトルは何がいいだろう?ひょっとしたら、いや、しなくても、僕にはコピーライトのセンスが無いのかもしれない。でも、これでも結構考えました。そしてこれが現時点での精いっぱいです。それが『感じ通信』なのです。

ここに記した思い、考えは『ほぼ日刊イトイ新聞』のダーリンコラムからインスパイアーされました。(→過去記事参照

そんなわけでジャンルは結構多岐に渡るブログです。そのうち何かに偏るかもしれませんが基本的にノンジャンルです。

これがブログの説明になるのかどうか?あるいはこれ程長い文章が必要なのか!?かなり疑問の残るところです。でも記しておきたかった。ここまで読んで頂いた方。あなたはかなり貴重な方です。癒されます。僕が。ありがとうございました。

投稿者 keizo

アーカイブ

最近のトラックバック

Powered by
Movable Type 3.34