僕は異質な物を個性として受入れられなければ、突出した個性なんて育たないだろうと思っている。まあ異質な物と言っても、他人を傷つけたり、生命さえ奪うような異質さは論外である。そうなるとその異質の程度というか、範囲が定まらないかもしれないが、その辺は突っ込まないで頂けたらありがたい。
異質な物を許容する。基本的には人の気持ちの持ち方だろう。確かにそうかもしれない。でも僕は人がそう思うには、社会やシステムの役割も大きいと思う。異質な物を受入れることに社会的インセンティブがあるなら、人の気持ちはそちらに傾くのではないだろうかと思っている。
確かに多くの人が同じ方向を見て、一定の価値基準で世の中が動いて行くというのは、ある意味長所とさえ言えるかもしれない。色んな意見で生じる軋轢の調整に社会的コストを費やす必要も少なくなる。たとえば法律を設定してその主旨を伝え、広報することだって必要ではなくなる。暗黙の了解で、所謂世間体というものが一定の縛りを形成し、それが機能するのなら社会的コストも随分と少なくなるだろう。
おそらく過去の日本社会にはそういう傾向があったのではと思う。それだけって事ではなくて、大きな括りとしてそういう感じじゃなかったろうか。そして敗戦後の復興にもその気質が大いに寄与したんだろうと思う。多少は個を犠牲にしても、皆で同じ価値基準を持って進んで行く。だからこそ奇跡的な高度成長を成し遂げられたのかもしれない。だとするとそんな気質があながち悪いことばかりだとは言えないかもしれない。
だけど世の中というのは動いてる。現実を見れば一目瞭然。製造業の多くは海外に出て製品を作っているし、企業一つ取っても、その企業間の思惑は、それぞれでかなり違って来ているんじゃないだろうか?そうなると企業に従事している人間にだって、その思惑の違いが影響してくる。それは当たり前だと思う。
何を持って異質とするかはともかく、たとえば日本を日本民族だけで云々なんてことにもかなり無理がある。て言うか、そもそも昔から日本民族や日本古来の物だけで日本が成り立ってはいない。茶道なんかも、本当に見事に伝来してきた物と融合、調和している。それは多少だけど茶道を齧ったことのある僕には実感としてある。
たとえが大きくなりすぎた。日本民族という括りでなくても、前述したように企業や職種によっても思惑が違ってくるし、それこそそれぞれが個々の事情を持っていると言っても過言ではないだろう?それは物や情報、お金が地球規模で動いている現代では至極当然な成り行きだろうと思う。
だから感情的に異質だと判断するのは判らないではないが、そういう気持ちが起きた時に、一度深呼吸して反芻したらどうだろう?異質で他人様に迷惑をかける物なのかどうか?あるいは自分は歩み寄れないのか?ひょっとしたら自分の興味の幅を拡げてくれる物ではないか?とか。
そもそも日本人って、いや日本の風土と歴史かな。そういう異質な物を取り入れて昇華させる能力に長けた人を産み出すんだと思う。だったら上手くすれば異質な物を個性として上手く取り入れることが可能だと思う。少なくともその下地は充分にあると思う。
そうすればどんないい未来が待っているか?判らない。でもね今みたいな、いやこのままだともっと酷くなりそうな、閉塞感に充ち満ちた社会よりはずっとマシだと思う。そりゃ平坦じゃないと思う。必ず何らかの軋轢は出てくるだろう。だけどそれを一つ一つクリアして行けば。いや行くことが日本の未来にも繋がって行くのだと思う。
きっと異質なものから突拍子も無いような素晴らしい物や人物が生まれてくるような気がするし、そういう個性に満ちあふれた社会って、やっぱり面白いと思うのだけどなあ。




昔の日本は一定の価値観を要求しつつそこからはみ出してしまった異質に対してより寛容だったと感じています。
現代の方が多様性といいつつ自分の価値観と異なるものに対する許容度が少なくなっている気がします。
かつては自分の個としての価値観と集団としての価値観という二つの価値観を受け入れる必要があったのに、現代では自分の価値観以外を受け入れられなくなっているんでしょうね。
h.okano さんコメントありがとうございます。
昔の方が寛容だったですかねえ?自分もそうだったんじゃないかと思い出していたのですが、どうも自信が無かったんですが、ただ、現代が寛容では無いというのだけは感じます。
昔ははみ出し者というレッテルを張られても一定割合までははみ出し者として生きていくことが出来ていたけれど、今ははみ出し者は蔑まれ無視され生きていくのが困難だと感じています。
昔は夕飯時には乞食が回ってきて何かしら余り物を施したりしていたものですけどね。今ではホームレスはその存在自体を否定されてしまっています。
はじめまして
私も異質なものを個性として受け入れることに同意します。しかし、それを非難されたり拒否されたりした時の態度が問題ではないでしょうか。「拒否されたことを受け入れます」みたいな対応(外見だけでも(^^;))、あるいは人に不快感をいだかせないような態度だと、先の異質なものは逆に受け入れられる割合が大きくなるのではないかなあと思いますが・・
ややこしくなってすみません。
>kumako さんコメントありがとうございます。
ことにもよりますが、僕は拒否はともかく非難をすることがそもそも寛容では無いと思っています。拒否だって寛容では無いと言えますが、そこには自分には許容できないと言う自由意思があるので、制約を付けるべきでは無いと思います。
仰っている非難を受けた時の態度とのことですが、自分に非は無いと思っているのに、多勢に非難されたと感じられた時、それでも「俺は間違っていない」と信念を貫くことがどれだけ大変なことかと思います。
ただしこれはことによります。なんでもかんでもという訳では無いと思います。もしいろんな軋轢が生まれて生活に支障を来すようなら、そこにはルールの設定とかが必要になってくるんだと思います。
「出る杭は打たれる」というたとえがありますし、昔から村八分的発想も根強かったのが日本社会だとは思いますが、確かに近年とみにその傾向が強まったのを感じますね。
個性を上手に取り入れた社会は理想ですが、異質な物を受入れることに社会的インセンティブが働く仕組みをこの国で作るのは、容易ならざることのように思えます・・
確かに容易ならざることでしょうね。と、僕も想像します。でも一歩ずつ変わってくると信じています。てか変わって行かないとたち行かなくなる部分も出てくると思います。