【日刊イトイ新聞】と【日経ビジネスオンライン】で特集されている滑川海彦さんとの鼎談で出てきた【タグ】という考え方に『なるほどなあ』と感心してしまった。
まだ、そこから連想して、あるいは影響を受けて、何か結論めいたものを見つけたわけでは無い。でもこれから事あるごとに【タグ】という単語がぼくの頭の中でグルグルと回るような気がする。
ぼくはインターネットに触れだした初期の頃、何の根拠も無く『これは世界を変えるぞ。』と思った。今でもその思いに違いは無いのだが、ただ当初はインターネット自体が変えるんだと、変な言い方だがあたかもインターネット自体が人間のように意思があるような錯覚というか、思い違いをしていたところもあった。たぶん『これは凄い!!』と舞い上がっていたんだろう。
でも当たり前だがインターネット自体は道具なんだと、しばらくして冷静になるとハッキリと認識した。ただこの道具はやはり凄いと思う。おそらく世界に印刷や放送というものが現れたのと同じぐらいのインパクトを持ち、かつ人々の考え方や行動様式に良きにつけ悪しきにつけ影響を与えるだろうと確信している。
だけどその何が凄いのか、自分の腑に落ちる言葉をイメージできずにいる。他人が言った言葉を借りてくることはできても自分の言葉ではなかなか語れないのだ。
それはともかく、確かに【タグ】ってのはツリー構造では無い。この分類の下にこれがあってというような捕らえ方とは一線を画すように思う。例えば飛行機や自動車という乗り物の範疇の一部としてのタグもあれば、その範疇とは別に赤やら青やらの色の範疇の【タグ】を付けることだってある。それは色でなくても年代や製造国というようなものだってもちろん可能だ。
しかしそもそも人間の頭の中ってそういうもんじゃないのだろうか。ツリー構造で頭の中を整理している訳じゃ無くって(整理されている人も居るかもしれないけど)、その時々で色んな【タグ】が出てきては消える。少なくともその方が自然なように思う。それが 100 % 表現されているとは思わないが、確かに Google の検索の方向性ってそれに近いものを実現させようとしているのかなと思えてくる。
話はまたそれるかもしれないが、自己紹介とかプロフィールというのがある。性別とか年齢とか職業とか。それぞれがまったく無意味だなどとは思っていない。確かに自分のことを知らない人に対して、ある一定の情報を与えることで自分のことを知ってもらう足がかりになるし、受け取る方も何らかの情報の一端でより想像しやすくなる。
しかしぼくはそれらの情報はあくまで一端であり、足がかりに過ぎないと思っているし、自分でもそう思うように注意もしている。少なくともそれだけで判断、あるいは自分の中にあるイメージで完結してしまわないようにと思っている。同じ性別、年齢、職業であったとしても、当たり前だがその人が思っていることや経験などは確実に違うのだ。たとえて言えばその人なりの【タグ】を持っていると思うのだ。
別に興味がなければそこまで追求しないよ。そうかもしれない。でも往々にして自己紹介やプロフィールだけの情報(その情報は受けてのイメージが主になるだろう)で終わってしまっていないだろうか。そりゃ仕方がないとは言え、なんか一抹の淋しさも感じるのだ。
俗にいうロングテールって、人それぞれが持っているだろう考えや思いにも言えるんじゃないだろうか?そんなの多くの情報で埋没してしまってどちらにしても表面には出てこない。確かに確率的にはそうかもしれない。ただ表に出やすいという可能性はインターネットが出てきたことで確実に上がっていると思う。
インターネットが道具であって、それを介して繋がる人と人が主役であるならば、この道具の特性(ぼくが思っている)が、確実に存在する個というものにもっと陽が当たることを期待しているぼくにはやっぱり興味がある。




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