一ヶ月程前にレンタルDVDで見た【バッファロー’66】、見てから直ぐに感想を上げようと思っていたのだが、延び延びになっていた。と言うより、その間『やっぱりこうなんじゃないかな?』とか、たぶん上手く纏められないだろうと感じる想いが頭の中にあった。
これをタイピングしている今でも、果たして想っていることを言葉にできるかどうか、甚だ心もとない。
物語は自分のヘマの穴埋めの意味もあり、身代わりで刑務所に入ることになったビリーの出所から始まる。彼は両親に、刑務所に入っていることを『結婚して、政府の仕事で遠くに行っていた。』と偽っていた。刑期を終え故郷に帰る際、両親への嘘を繕う為、そして何より自分に関心の無い両親に対して、気を引きたいとの気持ちもあったのだろう、トイレを使う為に入ったダンススタジオで、レイラという女性を行き当たりばったりで拉致し、両親の前で妻の役を演じるよう強要する。
この両親は確かにビリーの幼少の頃より、彼に対する関心というか愛情に欠けた所があった。日常的に暴力を振るうとまでは行かないのだが、ビリーに対して目をかけるという気持ちが薄いのだ。それに、彼がハイスクールの頃憧れていた女性も彼の想いに反して、彼など眼中に無い。そのこと自体は単に片思いと言えるのだけれど、つまり、ビリーは幼少の頃より誰も自分のことを必要としていないし、愛されてはいないと、少なくとも自分自身で思って生きてきた。
そんな風に思って生きて行くことが果たして多くの人に当て嵌まるのだろうか?ぼく自身はそこまで意識したことが無い。と言うことはたぶんそんな風に思ったことが無いということなのだろう。
ビリーは極悪非道の人間では無いが、真っ当な人間でも無かった。街のチンピラといった所だろうか。だから小さい頃の親の愛情が希薄だと、どうも宜しくないと言うことかと言えば、確かにその傾向は大きいのかもしれないが、じゃあ何らかの理由で親御さんの居ない人間はどうなるかとなってしまう。
ぼくは極端な言い方になるが、生物学的に親子だというのが大事なのではなくて、物心がついた時の自分と自分以外の他者との関係で、如何に自分が他者に必要とされているか、愛されているか、認めてもらっているか、あるいは構ってもらっているかという感覚の自覚が重要ではないのだろうかと思ったのだ。
当然のこと、生物学的親子なら自分の子供は可愛いと思うのが普通だろう。だからこそ何の見返りも無く、単純に愛おしいだろうし、色々と心配もし構いもする。そしてそういう慈しみを受けて、子供も自分は必要とされている、愛されている、認められていると自覚する。少なくともその感覚を感じることができる筈だ。
そこで思ったのだが、じゃあ不幸にしてそういう感覚を知らずに育ったら・・・?でも、成長して恋をし、例えば夫婦になったとしよう。そこでは自分が相手を慈しむという気持ちが強いのかもしれないが、やはり一方で相手が自分を認めてくれた、必要としてくれた、愛してくれたという自覚もあるんじゃないだろうか。
ここでも男女間の婚姻というごく一般的な例を上げたけれど、ぼくはあくまで重要なのは、自分と他者との関係性における自分の自覚が大事なんじゃないだろうかと思ったのだ。男女間の性を介しての関係性というのは確かに動物学的にも自然な生業だろうけど、こと人間に関してはもう少々複雑と言うか、他の動物には無い精神的な感覚がかなりのウェートを占めているのではと思ったのだ。
この映画の場合はビリーとレイラという男女間の関係性を通してその感覚を描いていると思うが、ぼくは重要なのは、自分と他者との関係に於て、他者を認める、愛する、慈しむ、逆に自分が他者からそう思われているという感覚も含めて自覚をすることが人間にとっては大事なことなんじゃないだろうかと思ったのだ。


コメント (2)
お久しぶりです、おはようございます。
この映画はずいぶん前に観ましたが、印象に残っています。最初に主人公がトイレを延々と探すところはおかしかったです。
そして、絵に描いたよう、ではない、両親の愛。でも、実際、そんなことが多いのかもしれません。
投稿者: たもと | 2007年02月10日 07:38
日時: 2007年02月10日 07:38
たもとさん、こちらこそお久しぶりです。そしてコメントありがとうございます。
この映画、借りる前はもう少しアクションっぽい部分もあるのかと思ったのですが、どうして結構色んな事を考えさせられました。それだけぼくにとっては良い映画だったと思います。
投稿者: keizo | 2007年02月10日 14:09
日時: 2007年02月10日 14:09