観てもいない映画について語るなんてどうなんだろう。でも『ALWAYS 三丁目の夕日』、こいつはぜひ観てみたいと思う。チラッとブログでの評判をチェックすると、どうやらこの映画、東京タワーが一つの象徴性を表現しているようだ。
舞台は昭和30年、僕が産まれる一年前だ。当時、敗戦のゴタゴタやら焦燥感から立ち直りつつあったが、まだまだ多くの人達は貧しくもあり、少なくとも物質的には決して豊かでは無かった時代だろう。実際、僕の家にテレビが搬入されたのも、僕が覚えているくらいだから、それから5〜6年はたった頃だろうか。今じゃ信じられないかもしれないけど、テレビには厳かに緞帳のようなカバーを掛けていた。それほどテレビというのは、少なくとも我が家にとっては貴重なものだったのだ。
でも物質的に恵まれていなかったから不幸だったか?そう問われると、こと自分に関しては幼かったこともあり、決してそんな風に思ったことは無かった。おそらく、この時代の大人達も不幸であると思うより、なんとか良い暮らしをしようと必死だったのではないだろうか。
生活の中には人情味があり、五感に訴えるような風情も色濃く残していた。多くのことがアナログで、人の手を介することが殆どだった。当時の我が家も長屋住まいで、家の軒先で火鉢を出して魚を焼いた記憶もあるし、隣近所から煮物を作ったからお裾分けっていうのも日常だった。
そんな時代に東京タワーの建設が進む。テレビというものが一般家庭の消費財になる幕開けだったに違いない。そしてテレビの普及と同調するように急なテンポで大量消費社会へと突き進んで行く。
その変化の中で失われた愛おしいものも確かあるに違いない。その失われたものって一体どんなものなのだろう?他人に対する人情味というようなものだろうか?そしてそれらは、もう二度と我々の前には姿を現したり宿ったりはしないのだろうか?
一方、失われたものがあったとしても、逆に多くのものを手に入れたことも事実だろう。そしてそれらがどれもこれも役に立たないものであった筈は無い。少なくとも、当時の夕日町三丁目の人達が、出来上がりつつある東京タワーを眺めながら、ぼんやりとでも希望していたものもあった筈だ。
おそらく当時の夕日町三丁目の人達はそびえ立ちつつある東京タワーを眺めながら、将来に夢と希望を託していたのではないのだろうか?
当時から50年経った2005年の現在、象徴とする東京タワーの建立を境に押し寄せてきた生活の変化の中で、失ったものを中心に考えれば、あれが諸悪の根源の象徴として捉えてしまうかもしれない。でも当時の人達が希望の象徴だと捉えていたとしたら、将来に対して前向きな希望を持とうよと訴えかけている映画かもしれない。
