以前、お茶のお稽古に通っていたことがあるという記事を書きました。(過去記事:気はそぞろじゃないですか参照)その記事では、お茶をやってみようと思った経緯は省略させてもらいましたが、今回はその切っ掛けがらみのお話です。
僕が21歳の時、アメリカに留学(遊学)することになったのです。当時僕が住んでいたのは大阪ですが、飛行機の出発が羽田だったもので、東京に住んでいた姉の下宿先に一泊させてもらいました。その下宿先の大家さんが、僕が後年お茶を教えていただくことになる先生だったのです。
その時、先生が餞別に『私の茶道入門』(黛 敏郎著)という一冊の本をくださったのです。後から思えば、異文化の地に行くのなら、生まれ育った日本の文化というものを知っていることも大事だろうし、少なくとも興味の対象にはなるだろうというお気持ちだったのだろうと思います。(画像の本がそれです。アマゾンで調べたのですがヒットしません。おそらく絶版だろうと思います。)
でもアメリカ滞在の4年の間どころか、帰国してからも30歳後半になるまで、その本を開いたことがありませんでした。アメリカに滞在中は、向こうでの生活が楽しくって、本をいただいたことさえ忘れていましたし、帰国してからは初めてのサラリーマン生活と東京での一人暮らしで、まあ日々の生活に追われたというか、これまた興味の対象外でした。
ところが、アメリカで知りあった友人が帰国後しばらくしてお茶のお稽古を始めたんです。いや僕が言うのもなんですが、そりゃ型にハマったことなんて絶対駄目だろう、受け付けないというタイプの人間です。少なくともアメリカでの付き合いの中ではそう感じていました。そんな男が会うたびに『お茶は面白い。』って僕に吹聴するんです。
話しをするだけでは無く、茶道具や茶室を見に行くのにつきあったりすることも増えました。当時は東京に居たので根津美術館とか五島美術館とかね。僕も元来絵画とか美術品とか見るのは大好きですし、全然苦痛じゃなく結構よろこんで見に行ってました。
そうすると次第に茶道というものに興味が湧きだしますよね。しかもこの友人がかなりの凝り性で、庭師の手伝いをしたりとか、大工の手伝いまでしだしてね。確かに茶道には、庭とか茶室のこととか建物の知識も必要ですけどね。話しが広範囲になって行くんです。
そんな時に、そう言えばあの本があったなと思いだし、ここで初めて先生に戴いた例の本、『私の茶道入門』(黛 敏郎著)を開いてみたんです。
ところで、僕がこの本を封印していた理由の一つに、僕が黛 敏郎という方に『国粋主義者』というレッテルを貼って敬遠していたことが大きかったんです。まあ『国粋主義者』が好きか嫌いかと言うのは好みの問題かもしれませんが、自分としては『どうもなあ?』と言うスタンスです。
いずれにしても、彼が『国粋主義者』だという根拠があったわけじゃないんですよ。たまたま見たテレビか雑誌の記事で、そのようなことを言われたか、あるいは僕が感じただけだったのです。少なくとも、ご自分でそう宣言したり、彼の書いた書物などを読んで、そう判断したわけではありません。
実際に『私の茶道入門』を読んでみても、僕が危惧しているようなことは一切ありませんでした。それどころか、お茶のことをさほど知らない僕が読んでも十分解りやすく、そしてなかなか面白く読めるのです。それに茶室のことなども含めて、かなりトータルに書かれています。もしアメリカ滞在中にこの本を読んでいたら、ちょっと何かが違っていたかもしれません。でも今更それを言っても始まりませんけどね。
著者に対するイメージが悪い。でもそれはかなり根拠の薄いイメージです。それこそ思い込みと言っても良いかもしれません。だから少なくとも読んでみてから判断する度量というか、行いが欠かせないと思うのですが、若気の至りとは言え馬鹿ですねえ。突っ張っていたというのもあるかもしれませんが、自分の中に確たるものが無かったから、何かに侵略されそうで怖かったのかもしれませんね。
それでも年月が経って、思い込みを一切捨てて素直にその本を読んでみたからこそ、一段と茶道に興味が湧き、結局、件の先生に入門することになったのですが、この時ほど、根拠の薄い下らない自分自身の思い込みが、自身の成長や、道を拡げてくれるチャンスを自ら邪魔をするんだなあと、思ったことはありません。
解らないことは解らないと素直に言えて、かつ、赤ん坊のように無垢に、先入観なしに吸収できるのが、本当は一番いいのでしょうねえ。
