今日10月17日付け『ほぼ日刊イトイ新聞』のダーリンコラムを読んで、『そう言やそうやな。』と目から鱗のことを一つ。
たぶん『今さら何言うとんねん!』と思われる方が多いかもしれないし、今回のダーリンコラムで糸井重里さんが伝えたいことの主旨とは微妙に外れるかもしれません。
その僕が『ハッ!』とした部分を引用しておきます。リンクを辿って読んでいただくのが一番なんでしょうが念のため。話題は昨今の阪神電鉄やTBSの株の買い占めについてのお話からです。
ぼくが、いまつくづく思うのは、「感じ」について語る人がいなかったなぁ、ということだ。「論理が正しければ、それに従う」というのは、近代人として、まことに常識的な考え方だけれど、人間というややこしいものが関係しあって暮らしている社会ってやつは、そんなふうには動いていない。動く面もあるだろうけれど、動かないことも多い。早い話が、結婚のプロポーズを受けた人が、「ぼくを選ぶべきだという相手の論理が正しかったから結婚しますと、言うか?
確かにテレビのニュースショーでは識者の方をゲストに読んで解説していただくというのが常套手段のようです。株のことに疎い僕なんかは『へえー、そういう仕組みになってんの。』と為になったりすることもあります。
そして続けて、
その事実を耳にしたときに、誰でもが、まずなにかを「感じた」のだと思うのだ。「いい感じ」「いやな感じ」どっちにしても、なにかを「感じた」はずだと思うのだ。なにかを感じて、その後、それはどういう意味なのか、自分としてはどう考えればいいのか、他の人々は、どう言っているのか、などなど、「考える」ことを始めたのだと思う。
そして重要なこととして、
最初に「感じた」ことを補うかたちで、「考える」ようになっていったのではなかろうか。だから感情的になってはいけないのだ、と言う人は言うかもしれないけれど、たいていの人間の心理は、そんなふうに動くのではなかろうか。ただどうしても「感じ」は、無視されやすい。討論番組などで「やな感じだから反対です」なんて言ったら、追い出されてしまうかもしれない。「感情論で語らないでくれよ!」と怒られるだろうな。
そうですよね。確かに『感じ』が先に来てます。そいでもって僕の場合はだいたい『なんでそんな風に思うのやろ?』って考え始めます。ただ、この『感じ』というのは、今までの自分の経験やら、知識やら、考えやらが積み重なった上での『感じ』ということも往々にしてあります。
だからその『感じ』の根拠を直ぐに論理的に説明できる時もあれば、反対にどうしても説明できない時も山ほどあるわけです。そん時はその『感じ』を寝かせることになるわけですが、ある時、それを論理的に説明できる時がフッとあらわれたりもします。
ここで唐突ですが、僕が『ハッ!』と思ったのは、僕も『感じ』を無視しているなと、ここまでコラムを読んで思っちゃったんですね。
物事について語る時、感情論はいけない。だからなるべくそういうことが無いようにしようと心がけている。気の置けない友人同士の会話ならそれも良いが、それ以外なら気にはかけているし、話し合いだけでは無く、ブログなどでも極力感情論に流れないように気をつけている。
それは今考えても至極真っ当な大人の振る舞いなのかもしれない。でもね、感情論がいけないからと言って、感情というものが無いかのごとき蓋をしちゃうのは違うだろう。実際ある事実を耳にした時、『感じ』から入っているのは、僕の場合、まぎれもないことですから。
整理されていない『感じ』をエチケット無視にぶつけ合うのはどうかと思います。でもそれは『感じ』を語るのとは別の次元の話しなのでしょうね。その辺がどうも自分の中でも一緒くたにしていた所があったなあと思ったんですね。
『感じ』がまずその人の考えの発露だとしたら、そいつを語ることは意義のあるというか、面白いことなのかもしれないじゃないですか。個々人の考え方の道筋なんかも聞けることになるしね。
あっ、でもこりゃ時間がかかるわ。そう、思っちゃいましたね。特にテレビ等の時間が限られた媒体では尚更ですよね。だから仕組みを知っている識者を登場させてまとめようとしているところがあるのかもしれません。でも現実には仕組みを知って、知識を得て、さあそれからってことは結構ありますよね。
ただ忙しい現代人。そんな難しく考えなくても、『偉い人がそう言ってたんやから、それでええやないか。』って終わることもあるかもしれません。それはどうなの?ですが、でも『感じ』は何処かに残っているし、そいつは無視するわけにはいかないのでしょう。このコラムで糸井重里さんが言っているように、そういう『感じ』を、今もっとも意識的に応用しているのが自民党の小泉総裁だというのも頷けます。
僕としてもその『感じ』を無視するわけにはいかないと思います。ただね、もうちょっとそこから先が知りたいなと思うし、また考えたいなと思うわけです。もちろん僕自身の『感じ』も含めてですけどね。そういう意味では僕は理屈っぽいのかもしれません。そのことは良い感じの時も、悪い感じの時も同じです。後者の時はある意味自分の『感じ』に対して、良い意味で信頼、悪くすれば固執している傾向があるかもしれませんけどね。
余談ですが、人間ってつくづく面白いですよね。論理で物事を理解するとスッとすることがある反面、音楽とか絵画を見て涙するほど感動することがあるんですもんね。
